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無原罪の御宿りのおとめ聖マリア Festum Immaculatae Conceptionis B. Mariae V. 大祝日 12月 8日


 楽園にいた最初の人間は、成聖の聖寵に包まれていた。しかし遺憾なことには不従順から一つの罪を犯し、自分及びすべての子孫が蒙る筈の聖寵をことごとく失ってしまった。従ってそれからというもの生まれ落ちる子供の霊魂は皆、罪を犯す前のアダムやエヴァが持っていたような聖寵は具えていない。この聖寵の欠乏状態、これを称して原罪というのである。
 それで原罪はある人が犯した殺人もしくは盗みの罪というように、その人一人が罰せられてお仕舞いになる個人的罪ではなく、親から子、子から孫へと行く末長く受け伝えて行く悲しむべき病気のようなものである。それはあたかも遊蕩に身を持ち崩し、恐るべき病毒に感染した親が、それを子々孫々に遺伝するのと似ている。この場合とがはもちろんその子孫にない、ただ彼等は親の因果が子に報い、有難からぬ不幸の御相伴をさせられぬに過ぎない。
 原罪もやはりそうで、とがはただ不従順の罪を犯した人祖にあった。しかしその罰の不幸は普く子孫の上にも及んだ。とはいえ、正義なる天主はまた慈悲深き天主でもある。主はその全知を以て先の先から原罪のあらゆる不幸をお見抜きになり憐れみの情とどめ難く、他日救い主を遣わしてすべての人から霊魂の重荷となる原罪を除き去る途を与えるとお約束になったが、その人類の救い主とは御自らもやはり人間で、全く罪の汚れがないばかりでなく、人間の罪をことごとく償う能力を持っておいでにならねばならなかった。
 けれどもかようなことはとても普通の人に望み得る話ではない。で、天主は聖三位中の第二位を肉とならしめ、その方に於いて神性と人性とを一致結合させ、かくて全く人間の罪の償いを果たさせ、真の救い主たらしめようと思し召されたのである。さてその救い主は天主であると同時に人であるから、一般の人々と同様やはり母から生まれねばならなかった。しかもその母がもし原罪に穢れている世間並みの婦人であったとしたら、これは誠に至聖なる天主であり人としても一点のきずだにない清浄潔白な救い主がお宿りになるにふさわしくないと言わねばならぬ。天主にはいやしくも不潔な罪のかけらすら触れてはならぬ筈である。それで救い主の御母と定められた聖マリアには原罪もあってはならぬ事となり、全知全能の天主は実際、救い主将来の御功徳によって、彼女の霊魂を創造し給うたその瞬間から原罪の汚れを除き去り、全く罪なき清い状態でその御母アンナの胎内にみごもらせ給うたのであった。これこそ本日記念する「聖母無原罪の御宿り」の由来に他ならない。
 かような訳で聖マリアには始めから原罪というものがなかったから、彼女は常に聖寵に充ち満ちた天主の愛子であった。「齢と共に智慧も聖寵も次第に増し給えり」とは唯主イエズスばかりではない、その御母聖マリアに就いても言い得る言葉なのである。彼女は罪と名のつくものは、どんな小罪といえどもついぞ犯し給うたことがなかった。反対に彼女のあらゆる御行いは善であり完全であった。従って彼女は日に日に聖となり、天国の為の勲功を増し、以てイエズスの御母たる身分にふさわしい高徳を積み、今は天の元后と仰がれて、これを尊び奉る者の力ある保護者となっておいでになるのである。
 無原罪の聖母に対する崇敬は、随分久しいもので、今日のような祝祭が行われたのも余程以前からであるが、それが特に盛んになったのは1854年12月3日以来のことである。即ちその日教皇ピオ9世は、カトリック教徒は何人も、マリアが原罪なくして宿り給うた事を信ぜねばならぬと定められたのであった。そして1858年3月25日には、聖母御自らフランスのルルドに於いて少女ベルナデッタに現れ「我は原罪なくして宿りし者である」と仰せになって、右の信仰箇条の誤りなきことを証給うた。「原罪なくして宿りし者」これは実に天主の聖母の最も麗しい称号である。彼女はこれまでこの称号を以て彼女を崇め奉る者に、無数の聖寵を祈り求め、数多の罪人を改心せしめ給うたが、これは今後とてもやはりその通りであろう。
 
 原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え!

教訓

 聖マリアは何しろ生涯に唯一つの罪も犯さず、原罪さえなかった御方であるから、誘惑や悪魔に対してはこの上なく有力な保護者であって、その聖名を呼ぶだけでも、或いはその聖絵聖像を飾るだけでも、悪魔は速やかに退散すると言われている。されば誘惑の時、霊肉に危険の懼れある時、躊躇なくその御助けを願おうではないか。